少し前から「歴史の物語り論」に少なからぬ関心をいだいています。ですから「言語論的転回」とか「物語り理論」などの言葉には敏感になっています。先日、鹿島徹という哲学者がヘーゲルの歴史哲学を「歴史の物語り理論」を解釈枠組みとして読み直すという試みを、今から10年ほど前に行っていることを知りました。それは現象学・解釈学研究会編『歴史の現象学』1996という本の中に納められた「歴史の物語としてのヘーゲル歴史哲学」というテーマの論文です。
手に取ってはみたものの、この論考はテーマがテーマだけに扱う問題が大きく、「歴史叙述の遂行論的分析」や「歴史認識の方法論的基礎づけ」といった問題関心を超え出てしまっているように思えました。鹿島徹についてはどうやら別の論文をあたった方が良さそうだと思いつつ、別のページに目を移すと、この本の中には谷徹の名前もあがっていました(「自然と歴史 ―生と世界の現象学的考古学―」)。この谷徹の論文もやはりまた、現象学における自然と歴史の議論を扱ったもので、不勉強な私には難解の一語に尽きるものでした。でも、なんとか最後まで読み終えることができたのは、論文で展開されている内容とは直接関係のない、冒頭ページの「ラプラスの魔」という文字に目が止まったからでした。何かひとつのことが気になると、本題をよそに脇道に入り込んでしまうという、学生時代からの悪い性癖が頭をもたげたのでした。
ちなみに、ラプラスの悪魔(Laplace’s demon)とは、1827年に77歳で没したフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスによって提唱された、物理学の分野で未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念です。ラプラスの主張は、「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつ、もしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えている」というもので、量子論登場以前の、ニュートン物理学における演繹的な究極概念、因果律の終着点といわれています。
(つづく)



