ラプラスの悪魔の正体を知ると、これはまさにA・C・ダントー(Analytical Philosophy of History 1965 <邦訳『物語としての歴史』 1989> の著者)が引き合いに出すあの「理想的年代記作者」ではないか、とちょっとした「発見」をしたような気分になったのでした。しかし、そんなことがあるはずもなく、科学哲学者の野家啓一がすでにその著作の中でこのことを指摘しており、以前にそれを目にしていた私のおぼろげな記憶が反応したに過ぎなかったことにすぐに気付きました。野家は『物語の哲学』2005で次のように述べています。
「ダントーは物語文に対立する者として「理想的年代記(Ideal Chronicle)」という概念を提起している。それはラプラスのデーモンになぞらえられるような超人的能力を備えた理想的な年代記作者によって執筆される詳細な歴史記録であり、以下のような特徴を持っている」
それに続けて河本英夫訳『物語としての歴史』から、ダントーの次のような文章を引いています。
「彼はたとえ他人の心の中であれ、起こったことすべてを、起こった瞬間に察知する。彼はまた瞬間的な筆写の能力も備えている。「過去」の最前線で起こることすべてが、それが起こったときに、起こったように、彼によって書き留められるのである」
ようするに、あらゆる事実を書き留め得たとしても、この理想的年代記作者は複数の出来事を一定のコンテキストの中に位置づけて関連づけることはできません。彼は遡及的に過去を再編成するような語彙は持たないからです。よくあげられる例で、30年戦争が勃発した時点の1618年では、その戦争を「30年戦争」と呼べないということがそうした事情を物語っています。超越的視点からとらえられた「事実そのもの」は、それ自体では歴史の中に場所を持たないということになるのでしょう。
ところが、です。今回確認のために上述の『物語の哲学』の「増補新版へのあとがき」を読み返してみて、また自らの記憶力の弱さを痛感してしまいました。野家批判の論客のひとりである上村忠夫が、歴史のヘテロロジーの立場から野家の「物語り論」にたいして根本的な疑問を投げかけていることを、ほかならぬ野家自身がすで語っていたのでした。「私がダントーの「理想的クロニクル」作者を「ラプラスのデーモン」になぞらえたことを乱暴なアナロジーと断じ(この点についての上村氏の批判は正しい)、理想的クロニクルとは「歴史叙述にとっての前構成的な可能性の領域であって、そこには、今では「記憶されぬもの」や「語りえぬもの」となってしまった「歴史の他者たち」の経験もふくめて、過去に起こった出来事のいっさいがありのままに記録されているのではないか(上村『歴史的理性の批判のために』第2章「「理想的クロニクル」再考」2002)」というのがその該当部分なのですが、あっさり「ラプラスの悪魔」と「理想的年代記作者」をアナロジカルに対置させることは乱暴であったと認めているではありませんか。結局、「発見」でも何でもなく、またぞろ「前構成的な可能性の領域」という、私にとっての「未知の領域」に足を踏み入れることになってしまっただけのことでした。


