ワシントン・ナショナル・ギャラリーのこと|経済学部ブログ|名古屋経済大学

ワシントン・ナショナル・ギャラリーのこと

京都市美術館で開催されている「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を見る機会があった。本当は同館で同時に開催されていた「フェルメールからのラブレター展」を見たいと思ってでかけ、そのついでに同展を見たのだった。フェルメール展は会期末ということもあって入場まで30分以上待たなければならなかったが、ワシントン展にはすぐ入ることができた。ワシントン展は、ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の印象派を中心とした80以上の作品を展示しているとあって、見ごたえがあるものであった。

かつてワシントン・ナショナル・ギャラリーには、何回も行ったことがあった。いやむしろ通ったという方が近い。というのは、次のようだったからである。20年ほど前になるが、約1ヶ月ワシントンにある国立公文書館で貯蓄金融機関制度の成立について調査をしたことがあった。同館は大通り(Constitution Avenue(憲法街)というしゃれた名前がついている)を隔ててギャラリーのすぐ近くにあったから、私は昼食時にはいつもギャラリーに行って、そこで昼食を取るのが常であった。なんといっても、ギャラリーの入場は無料だったし、それ以上にそこには好みのものを選べるカフェテリアがあって、似たようなものばかり食べていることに辟易していた私にとってはとても有難かったからである。

その後、公文書館ではないが、何回か別の政府機関に調査に行くことがあって、週末にはどこにも行くところがないので、しばしばギャラリーを訪れては空腹を満たすことになった。そのついでに?、ギャラリーの作品に接して、一時の安らぎを感じたものである。

そんな訳だったから、今回京都で、見た作品には何回かすでに接しているはずであった。しかし、今回京都で見た作品の中では、半分くらいしか見た覚えがなかった。やはり、私の目は節穴で、私自身は程度の低いディレッタントにとどまるな、と痛感しながら帰ってきたものである。

ああそうそう、ナショナル・ギャラリーには、懐かしい思い出がある。昨年のことだった。例のごとく同館を訪れた。米国の官庁のセキュリティーは厳重で、訪問者は入り口を入ると、必ず警官(通常は2人)のチェックを受け、かばんの中まで調べられる。同館もその点は一緒である。チェックを受けようとすると、この風采の上がらぬ中国人か(ワシントンで日本人かと思って接触すると、そのほとんど全てが中国人であった)あるいは日本人はよく来るなとでも思ったのであろう、あるアフリカ系の警官が私に尋ねた。「おまえは何ものだ。科学者か」と。「いや、エコノミストだ」と、私は答えた。その後次のようなやりとりが続いた。「ワシントンに何しに来た」「あなたはFDICを知っているか」「うん、あの預金に保険をかけてくれるところだろう」「そこにリサーチャーとして来ている」「エコノミストなら、一番金儲けできる方法を知っているだろう。投資か」と、その警官。私は答えた。「いや、違う、努力だ」私の発音が悪いのか、effortという表現がこの場合適切でなかったのか解らないが、相手の警官は最初はきょとんとしていて、私の言ったことを理解できないらしかった。そのうちに解ったらしく「そうか。努力か」と、ようやく理解した風であった。隣に立っていた白人の警察官が、やぁ、またこいつのおしゃべりが始まったわい、とでも言いたげに、にやにや笑いながら2人のやりとりを聞いていたのが妙に印象に残った。

このちょっとした経験は、私には、このような全く知らない地での人々の交わりこそが旅の醍醐味なのではないかと思わせたが、それ以上に、日米の投資観の違いを確認するよすがともなった。つまり、お金を儲けるという場合、まずinvestmentに眼を向ける、別の言い方をすれば多少リスクが高くても高い収益を目指すというのがアメリカ人の投資観である。それに対して、日本人では、このような場合、恐らくどのようにすればお金儲けができるかを問うことはあっても、投資にまでは言及しないだろう。このような日米の投資観の差が、家計のリスク性金融商品の所有比率の差となって現れているといったら、乱暴すぎる言い方になるだろうか。

*ちなみに、2010年12月末で見ると、日本の家計の金融資産に占める有価証券の割合は、たった12.6%であるのに対し、アメリカでのそれは40.7%に達していた。

野村重明